3/27 ある人との出会い
3/27
いつもの通りに公園まで走っていって筋トレをしようと出掛けた。
公園までの距離は1キロ半程で6分くらいで着く。今日は歩道橋を使ったせいか、6分半で到着。
昨日は体のキレが悪かったが、今日はよく動く。いつもは、筋トレまたはダッシュ3本であるが、今日はダッシュ2本やった後に筋トレをやろうと決めた。
公園のトラックは一周200m程度で円を描いている。走るにはあまり適していない。
公園に着くと計二人の男性が走っていた。珍しい。
共に同じトラックを走る人がいて、気分も向上し、ダッシュの前にキロ4分くらいで二周した。
当然、二人ともペースは"市民ランナーのおじさんのジョグ"程度で簡単に抜き去った。
その後、ダッシュ二本。150m程度を23秒で走る。カーブがかなりきついため足への負担は大きい。
ダッシュが終わると、走っている人は1人になっていた。なんだか少し残念ではあった。
いつもは「今日はダッシュの後に筋トレやるぞ!」と意気込むが、結局ダッシュが終わった後に「今日はもういいや…」となって帰ってしまっていた。
しかしこの日は違う。いつもなら速効で帰っていたが、気付いたらウォークをしていた。
芝生の上をウォークしながら走っている人のフォームを見た。この行為は癖だ。必ず他の人のフォームは見てしまう。
走っている男性は「うぅぅぅ…」と唸りながら走っていた。その時、「あ、この人は障がい者だ」と確信したのだ。
歳は16歳くらいであろうか。
僕は障がい者に対しては1人の人間として尊重したいと思っている。…自分自身にそう言いかせているというほうが正しいのだろうか…。この分野の議論は難しいと思う。色々な事情が絡むからだ。
ただ、障がい者への見方が変わったのは中学の頃に、友達に冗談で「お前障がい者かよ~笑」と言ってしまい、それを聞いた体育教師に「そういうことは言ってはいけない」と本気で怒られたからだ。
冗談でも言ってはいけない。それから反省し、胸に誓ったのだ。
話を戻すと、
彼は200mの周回コースを延々と走っていた。時には止まることはあっても直ぐに走り出していた。
「ペースはキロ7から6分くらいだろうか?」
「そこまで遅くもない」
分析しながらウォークしていた。
気付いたら3周はしていた。いい加減に筋トレをしようか。
筋トレメニューはhiitでバーピージャンプ+スクワットor腕立て伏せを交互にやるというもの。20秒全力でやり、restは10秒。なかなかハードではあるが、効率的で効果的である。
4日ぶりくらいだったので3セット目からかなりきつかった。
「しんどい…」
そう思って力が抜けていくのが感じた。
最近はいつもこうだ。ランニングが筋肉が落ちる原因と理解してから走るのもどこがでリミットがかかってしまう。
「せっかくの筋肉を落としたくない」と理屈をつけて限界まできつくなる前に止めてしまうのだ。この判断は競技を止めた今、正しい選択肢のひとつでもある。
しかし、中心になりつつある筋トレでも手を抜いてしまうことがしばしばあるのだ。
「今日は体が重いから3セットでいいや」
やらないよりはマシではある。夜の勉強に支障がでるのも嫌だと思い、つい手を抜いてしまう。結局、夜の勉強をあまりやらなかったりなんてこともよくある。
力が抜けているのを感じているとき、自分の横をある人が走り抜けていったのを感じた。さっきの人だ。
「まだ走ってんのか…」
自分がついた頃から走っていたため、かれこれ30分近く走っているのではないだろうか。
少しだけ活力が湧いてきた。僕は少しだけ負けず嫌いなのだ。
「おれも頑張ろう」
目標の4セットが終了。力を出しきって倒れこんだ。
依然として、彼は走り続けている。
"限界"
この二文字が頭をよぎる。
昨日の夜はずっと「陸王」を読んでいて、登場人物について思い出す。
「限界か…」
倒れ込みながら考える。
生理的限界と身体的限界。陸上ではよくこの言葉が使われる。生理的限界は本人が思う最大級の限界(のつもり)で、身体的限界は本人の体の限界、英語ではDEAD POINT(デッドポイント)なんて呼ばれる。
陸上の練習ではいかに生理的限界を身体的限界に近づけていくかが重要な要因のひとつである。
自分は生理的限界がくると、すぐに挫折してしまう。自分が一番分かっていた。自分の弱さに。
きつくなってからが勝負。しかし、そこに耐えきれない。それが現実であった。
受験でもそうだった。ひとつのことに絞って頑張るが、ここ一番のところで頑張りきれない。自分はそんなヤツなのだ。
自分で勝手に限界を設定してしまう。
国公立を受験しなかったのも、ザックリ言ってしまえばそうである。結果的に成功ではあったが挑戦はなかった。
走っている彼は限界など微塵も感じられなかった。いつまでも走ってられる。それが伝わってくる。
障がいがあると出来ることは限られてしまう。それ故に世間から淘汰されてしまうこともあるだろう。
しかし、必ず普通の人には出来なくて、彼らに出来ることはある。
まさに彼は僕にはないものを持っていた。
なんだか自分が恥ずかしくなり、もっと頑張ろうと思った。彼が紛れもなく、一時的ではあるが僕を変えてくれたのだ。
僕はもう4セットをやった。スクワットと腕立て伏せだ。
最後の腕立て伏せはとてつもなくきつかった。
しかし、彼が今走って頑張ってる中、手は抜けなかった。手を抜いてはならないと思っていた。
そして、計8セット終了。ここまでやったのは本当に久しぶりである。充実感と達成感に包まれる。
1日のタスクをこなし公園から帰ろうとする。トラックを見ると、彼はまだ走っていた。
もう6時過ぎとなり、暗くなってきている。しかし、彼はまだ走っていた。
帰りは歩いて帰った。
疲労に苛まれつつ、考える。
今日の出来とごと、彼について、自分の競技について。
見失っていた目標や信念が蘇ってくる。
自分の"良さ"はこの極限まで頑張ろうとする意志だったのではないだろうか?
今の自分はそれを失っているのではないだろうか?
いつもより変わった1日であった。