迷子
激動の一年が過ぎた。
卒業製作を終え、盲目的に建築や一つのそれに耽るということが少なくなった。
時間に余裕が生まれ、思考の幅が広がる。
周りも卒制時期の殺伐とした雰囲気から解放され、なんだかいつも以上に和やかなように感じる。
そして春休みも間もなく終わり、新学期の始まりを迎える。
この前、先輩や同期と飲み会に行った。
好きな女優の話になって答えられない自分に情けなくなった。変なプライドなのだろうか。単純に考えたこともなかっただろうか。
映画をそんな見方をしたことは今までしてこなかったし、本当に誰の顔も浮かばなかったのだ。
そんなことを考えることに意味はないと思ってしまった。僕の悪い癖だ。
すぐ自分とは関係ないことを、時間の無駄と見切りをつけて距離を置く。そういう自分が嫌ではあるが、「本当に意味ない無駄な時間である可能性があるのでは」という考えに結局は至ってしまう。
何とも言語化してみると、単眼的で自閉的な考えだ。結局何が意味ある時間なのかを問われても上手く答える気はしない。
ただ、この時間ではないことは確かだ。なんて捨て台詞を吐いて店を出てしまおうか。
この春休みの間に読みたかった小説を幾分か読破した。『地底旅行』や『タイムマシン』などのSF小説や『ユダの窓』や『黄色い部屋の謎』などの推理小説を読んだ。「小説 古典 金字塔」なんて当たり障りのないワードを打って出てくるサイトの上位に名を連ねるものはほぼ読んだ。
かなり硬派な内容のばかり読んでいたため、ライトな小説が読みたくなり、BOOKOFFで適当に読みやすそうなものを直感で買うことにした。
買ったのが、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』『虐殺器官』『陽だまりの彼女』だ。
『ナミヤ雑貨店の奇蹟』はサックリ読める当時の僕の理想的な小説であった。過去と未来を横断する手紙が繋ぐ心温まる物語といったところ。
問題は『陽だまりの彼女』だ。僕が今これを書いているきっかけはこの本だ。色々なことの重なりが溢れてしまった。この本はきっかけに過ぎなかった。
このブログで言語化しきるのも避けたいような感情だ。実のところまだ途中までしか読めてないのだが、この手の純愛物語はとても避けたかった。嫌いというわけではない気がする。どちらかというとずっと避けていたこと、見ないようにしていたことだ。
たぶん、僕にとってとてもセンシティブな問題なのだろう。
世の中の物語はいつも愛とか恋を歌っている。
小説を読み進めていくと、結局は愛の物語であったり、音楽は大体恋愛について歌うものだったりする。それらを薄っぺらいと一蹴するのは容易だ。しかし、自己投影させてきた小説で直面してしまったとき、考えざるを得なくなってしまった。
「今の俺には関係ない」と強がったところで、結局は孤独に怯えている自分に気づいてしまうのだ。自分の悪い癖で自分自身がダメージを負っている。
最近はこんなで、無気力な日々を送っている。
終いには、「あの時得たものも無意味だったのでは」と卒制の思い出にも陰りが生まれる。
結局僕は孤独に恐れているのだろうか。自問自答を続けていると、何だか元の命題に疑いを持つことを忘れていく。
逃げ場がないという感情だ。共感も安心もない。ただ、ぽつんとあるだけ。自分の社会的立場と心理的状況が。
僕はこの数ヶ月の間で、僕と他者を相対化し過ぎた。
自身の価値軸を失っている。
そうして自分の居場所が無くなったように感じている。
好きなアーティストの歌詞がとても疎ましく思う。自分でない誰かが、今までの自分に意味を貰ったとするならば、今の僕は一体何であるんだ?!
生きる半分が誰かからの借り物だとしたら、僕は今何をもってして生きているのか。半分死んでいるのか。それがないことで。
どうしようもなく、嫌になってきた。
自暴自棄だ。
何が嫌なのかは言語化出来る気がするが、仕切ってしまうと何か崩壊してしまうような気もする。たぶん、価値観が変わってしまう。それは少し怖いのだ。
この駄文を書くことでしか今の自分を客観的に見れない。