迷子の建築学生ブログ

たとえ道に迷ってもそれでいい

20210206 大学生2年振り返り

2021/02/06 深夜2:33

完全に昼夜逆転してしまった身体を動員させこのブログを書く。

 

ここで文字を打つのは非常に久しぶりだ。

流石にネットの海の藻屑と化して、誰の目にも止まってないと思いアクセス分析を覗くと、意外にもちょこちょこ見てくれる人がいた。忘れられたと思い込んでいた故に、嬉しい限りである。

 

そしてここで文字を入力する中で様々な感情が思い浮かぶ。

なんと自由なんだろう。

最近ではTwitterでしかSNS発信をしないために、100文字程度しか機能上書けない。なので、言葉を選定し、制限までにまとめないといけない。しかしながら、ブログはほぼ無限大に文字を書けるために、自由に言葉を選び、思うがままに書き記していくことが出来る。

 

本日は自由に最近思ったことを書く。非常に長い文章になると思うが、是非見てる方にはお付き合いしていただきたい。

 

 

 

1.最近の読書について

 

1月2日あたりにブックオフのセールがあり、小説を大量に購入した。その中で読んだものの感想をここでも記しておこう。

 

『優しい死神の飼い方』

最初このタイトルを耳にしたとき、どんなグロテスクな描写が待ってるのかと心構えた。それもそうで、死神という不吉な言葉が含まれているからだ。

しかし、読んでみると非常に心温まるストーリーだった。人間から死神と呼ばれる霊的存在の主人公。人間を卑下するような描写があるが、これも痛快で気持ちいい。そして人間に触れていくうちにだんだん心変わりしていく主人公…。

 

『ちいさなおうち』

これは絵本である。田舎の家視点から描かれた、都市への羨望、そして失墜。建築の在り方を考えさせられる。

 

『わたしが・棄てた・女』

これは非常に心を打った…。えぐられた。都内の平凡な大学生である男と田舎を家でしたミーハーな女。雑誌で女が書いた便りから連絡先を知った男は、女と会う約束をした。その時の男の心情はなんであったろうか。冴えない日常を過ごし、お金も女性もなく時が過ぎる。そんな日々からの脱却が感じられる。デート当日の女はみすぼらしく、幼稚に描かれる。勉強不足で知能が低い人間。そう男にも読者にも写る。そして、デート終盤にて男と女は交わることになる。その後、男は女との連絡を絶つ。男は取るに足らない事柄であると思い込むようにしたが、このことを男は忘れられなくなるのだ。

そして中盤から女に焦点があてられる。みすぼらしく、ミーハーな何も考えてないような女は実は深い傷を負っていて、そのことは確実に女の人生を狂わすのだ。それが非常に痛ましかった。一筋の希望を胸に生きる女。しかし、男はそれを見向きもしない。そんな対比が非常に観ていて心痛める。

そして女に待ち受ける悲惨な運命。ここまでくるともう女にしか感情輸入していないのだ。そうして物語が進み、希望の糸が垂れ生きる希望を再度見出す。あれだけみすぼらしく思えた女はもはや聖母のように思えてくる。しかし最後に待ち受ける残酷な運命。

読者は思うのだ。「ああ、なぜこんな人がこんなひどい目に合わなくてはいけないのか」と。この世の不条理さや後悔、恋愛、失望、希望が入り混じったストーリー。初めての遠藤周作の本を読んだが、彼は紛れもない天才だ。

 

 

『カラフル』

自殺した中学生の魂に一時的に転生する、ある罪人の物語。これは非常に心温まる物語であった。一度死んでいる。そう思ったらわりと人生何とかなると思えるのは不思議だ。

 

 

ぼくは明日、昨日のきみとデートする

いやあ、これは色々と辛かった。物語の大筋は知っていた。けれど改めてみて辛い。

辛いポイント1:ごりごりの恋愛小説

辛いポイント2:物語の構図

辛いポイント3:そうして現実に戻った時の虚無感

ごりごりの恋愛小説はこういったダメージが残るので敬遠していたが、案の定ダメージが残った。なんか「つれぇ…」という感想しか出ないわけですよ笑

小説で満足したので映画は観ないつもりです。バックナンバーは聴きます。

 

 

言の葉の庭

登場人物がとても掘り下げられていてよかった半面、映画は観てないせいか、わりとその掘り下げがどうでもよく思えてしまった。多分映画見てたら、部分の答え合わせになってたりして、興奮できたのだろうが、さすがに理不尽な体育教師や女子生徒には共感しえなかった。まあ当然かもしれないが。

しかし、主人公とヒロインの女性の心理描写が小説ならではのタッチで描かれていて、とても情景が浮かび良かった。

映画を観たい。

 

 

砂の女

これもかなりの力作であった…。最近Twitterにて感想を描き切ってしまったので省略させてもらう。

安部公房恐るべし執筆力。

 

 

 

 

小説はこんなもんだろうか。建築本含めるとまだすこしあるが。

こうやって列挙してみると案外多い。友人から、「いつそんなに本読んでるの?」とか「そんなに本読めるの羨ましい」などの声を貰うが、深夜に睡眠を忘れてハマっているだけだ。歴代の人間が繰り返した魅力が本にはある。浅い歴史のYouTubeやネットではいまだ到達していない領域が読書だ。とりあえず本を開いてみる。学生のうちは読書に浸ろうと思う。

 

 

2.  大学2年振り返り

 

ついに春休みに入って休みを謳歌している。この2年生は色々あった。まあ大体の人は”コロナ”という忌々しいワードが浮かび、自分のこの1年の負を全て押し付けようとする輩もいるであろう。僕はそうは思はない。この1年はえらく充実しており、価値があるものであった。

機会損失しているのは確かに頷ける。「遊べなかった」「海外いけなかった」「外に出れず様々な体験を失った」これらは当然僕も思う。「もしコロナがなければな~」と口を苦くすることも何度もあった。しかし、外出による機会損失はあっても、家の中に居ることの機会獲得があった。

 

一番は読書。そして自由時間が増えたことによる自己投資時間の増大。そしてどうでもいい人間関係の終焉だ。

1番目は言うまでもなく重要だ。2年最初の設計課題で折れた心を回復するように、僕は本にしがみついた。今になってはそれが糧となり、僕の精神的支柱となっている。なぜ子供のころから読書していなかったか甚だ疑問である。

2番目は人間関係がオンラインによって築けることで、様々な人と気軽に関係を結びやすくなったことだ。建築関連の友人が全国に拡大したのは非常に大きい。

3番目は僕らしい回答だ。これによって無駄な時間や無駄にイラつく時間は減り、やりたいことだけに集中できる環境を得た。まあ同時にコミュニケーション能力が落ちたわけだが笑

 

こうして僕はコロナ禍を自分なりに充実して過ごした。機会損失で嘆いてる人は、もともと遊びで大学に入学した”まっとう”な人間か、自分の行動力のなさを責任転嫁する残念な人間か、本当にコロナで打撃を受けてしまった可哀そうな人間であろう。まあ大体最初の2つに分類されそうなものであるが、これ以上の無意味な批判はやめておこう。

 

大学二年であと語るとすれば、設計課題でようやく最優秀作に選ばれたことであろうか。

これは嬉しかった。正直嬉しすぎて言葉が出なかった。

僕は1年生の初期から建築を熱心に勉強し、取り組んできたが、設計で大きく評価されることは1度もなかった。それは勿論学校の評価基準に乗っとったものであるが、それでもやはり選ばれたらそれでモチベーションにはなる。

初めの挫折は1年の課題。第2課題はリサーチで最優秀作に選定されたが、やはり設計で勝利を勝ち取りたかった。しかし、現実は非常なり。今でもあの作品は力作で誰にも負けてないと思ってる。そして2年の前期の課題。これもめちゃめちゃやりこんで、班での選定は余裕と思い込んでいた。しかし、かすりもしなかった。これには教師を恨んだ。そして設計と学校に絶望し、建築が嫌になった。「あんだけ頑張ったのに、あんな作品がノミネートかよ…」やりようのない怒りがこみ上げる。そして夏休みの序盤は建築以外のことを探求していた。そうして2年の苦節の末にこんな一般的、むしろ劣っている人間が後期の第一課題で最優秀作を取れた。

勿論最優秀作であるゆえに最も良いというわけではなく、これからも作品と向き合い精進していかなくてはならない。…という文章を書いてはいるが、なんとも古臭い言葉選びだと嘆いてみる笑

こうして2年は充実した人生を送れたので、3年はますます頑張ろうと心に思った。

 

 

 

3.大切な仲間

建築学生において仲間はとても重要だ。仲間とは同年代の子だけでなく、先輩後輩を含むと僕は考えている。ともに切磋琢磨しあう仲間がいるだけで頑張れる。そういう話を軸に進めていきたい。

 

1年生のころから建築狂な僕はさすがに大学の同年代の子から知られている存在であった。まあ”建築めっちゃやってるやばいやつ”といったところか。こうなった経緯は今まで書いた記事にすべて載っているので見て欲しい。まあ要は、元の没頭できる性格とある種の失敗を重ねているからだ。

話を戻すと、2年のこの時期になると皆建築を頑張り始めるので、すでに頑張っていた僕は認知されていたし、話すとすごく気が合う。そりゃ頑張っている方向が同じだからだ。そうして大学内外に多くの仲間が出来ていた。これが僕のもつ性格や失敗以上に重要な要因なのだ。そういう友達や目指す人、目指される人になることで、建築に向き合える。めんどくさいことも本気で取り組める。一人じゃ無理なのだ。僕は実は誰かに見てもらいたくて、認められて欲しくて、一緒に何かをやりたいのだ。

 

こうして日々鍛錬を積むように建築を学んでいたり、ものごとについて深く考えていると、やはり周りからは違う存在に見えてしまうようなのだ。遠い上の存在のように思われることが多くなってくる。でも僕自身は全然そうは思ってなくて、今の自分はそうい人や、僕以上と思える人間がいるから成立しているのだ。

もし僕が一定の才を得ているのならば、それは何かに没頭できる精神力のみであろう。あとは環境が僕を押し上げた。

 

 

 

4.自分について

ふと自分について、過去の自分と対峙して考える。子供のころはゲームばかりしていたが、本当にゲームが好きなのだろうか。その問いに対する答えは、実は「yesと言い切れない」ということだったのだ。

当時僕はゲームに何を期待していたのか。魅力的なゲームのキャラクターを収集する没頭する時間。なにかに熱中しているその状態とそれを共有することが愛おしかったのでないか。意味のなくただただモンスターを狩り続けることがあった。それをネットの友達に共有したり、しなかったり。ただただそうやって時間を浪費することも好きだったし、同じ仲間が出来るのも好きだった。しかし、ゲームをほとんどやめた今、特に不自由なく生きている。それはゲームが好きだっただけでなく、何か興味あることに没頭することが好きであるということを示唆していたのだった。陸上も勉強も読書もそうであった。孤独と向き合いそれに没頭する。正直、友達と遊びのために外に出るより、そうやって好きなことをやる方がよっぽど楽しいのだ。

過去、生きる意味について深く考えた。人生の全てが失敗に終わったように思えた18歳のあの時の僕には盲目すぎて見えていなかったことだろう。僕の生きる意味はそうして、何かに没頭していて、そこに人がいて、共有できていることでないだろうか。

 

 

 

 

 

深夜4:11

かれこれ1時間半以上もこれを執筆しているのか。文字数も4500文字を超えた。

今日はこの辺にしておこう。