迷子の建築学生ブログ

たとえ道に迷ってもそれでいい

原動力は

今は設計事務所のバイトの四連勤を終えた、帰りの電車内である。
流石に疲労が蓄積し、頭が上手く働かない。ふわふわと思考が発散し、映画も動画も本にも集中出来ないので、文字を書こうと考えた。

最近、TwitterInstagramをやらなくなってしまって、文字情報に起こしてアウトプットすることを久しくしていなかった。そうしてTwitterをやらなくなったことで、アウトプット量は落ちたが、無駄な情報を取り入れずに済むという点において、非常にメンタルが安定する。
欲しい情報源は基本的に自分で調べるか、事務所の中で発見していくため、Twitterという受動的な情報源を必要としなくなったのは大きい。

ぼんやりとした頭で考えるのは建築の仕事について。事務所のボスは僕がこうして駄文を書いている間にも、建築について思考しているだろう。その原動力が何なのかは僕と共通しているようであるが、遥かに巨大で及ばないものであると直感的に感じる。
僕の建築への原動力は見たことない建築に対する感動だ。思わぬところから、新しい発見をし、新しい風を巻き起こすような力を持った思想が内包されたものであると尚良い。あくまで建築をそういう評価軸で見ている。自分の家を建てたいとか、いい住宅を作りたいというものではないだろう。
でも原動力はそれだけではないのだと感じる。本当に疲弊し、嫌になっているときというのは、それすらも忘却し、ただしがみつくだけになる。そのときの原動力はもっと過去の文脈によるものである。
それはやはり陸上競技時代にあるように思える。要は人生において最も辛かった時期の経験が源となっているということだ。
陸上をやっていたときは日々が地獄のようであり、心身ともに磨り減っていた。張りつめた緊張感のあるフィールドでは、ただただ己との戦いであり、惰性による練習は意味はなく、思考の連続であった。当時において、残念ながらその思考の連続は、無駄なことへの思考へ転換されてしまい、結果に悪影響をもたらすものとして終わってしまった。しかし、陸上というフィールドを離れ、その癖は輝いた。思考の連続はものの解像度をより高め、より思考を高次元なレベルへ高めるサイクルを形成する。それは今の建築への思考に非常に直結している。
当時は基本的にネガティブな思考が多かったが、ここ最近の小説の読み込みのおかげか、安定したメンタルの下、集中して建築に専念出来るようになった。
今も思考を止めて投げ出しそうになることもあるが、やはり陸上をやっていたときの、逃げ場がなく思考し続けなければならない経験が今を支えてくれるのだ。

今も陸上での経験を思い出すと、苦虫を噛むような悔しさに駆られ、感傷的になってしまう。同時にその経験の重大さを知覚する。なまっちょろい言葉を使いたくないが『あの時があったから、今がある』というやつだ。

原動力である陸上から受験勉強、そして建築と思考は連続しながら繋がっている。この先がどう繋がっていくかは僕も予測出来ないが、どのみちかなり辛い道を選びながらも、必死に何かにしがみついているのだろう。