迷子の建築学生ブログ

たとえ道に迷ってもそれでいい

本を読むこと。後悔していること。

最近、本をよく読む。

今回話題にあげるのは建築の本や難しい工学本でなく、小説本だ。

 

 

僕は子供のころから本好きというわけではない。

本に困らない環境であったものの、僕がゲームや絵ばかりに熱中しているために、親や親戚はあまり僕に文学小説のような本を与えなかった。

 

しかし、かいけつゾロリノンタンなど子供向けの本やドラえもんなどの漫画は大量に与えられた。そう考えれば案外幼少期は本に触れる機会が多かったのだと反省する。しかし、小学生高学年以降は如実に読書量が減った。それはDSに深く熱中しており、それ以外に対して興味を示さなかったからだ。いや、昔から読書という感覚は持ち合わせておらず、本も絵だけ見て満足していただけだと再度反省する。

 

そのゲーム好きで勉強や本の世界に興味を示さない僕は、中学生になった。中学1年の国語授業は今でも覚えている。剣道部顧問の女教師は片っ端から生徒を喋らせたいらしく、句読点ごとに全生徒が音読する授業を必ず取り入れた。正直言ってこの方式はとても苦手であった。緊迫した教室の中、迫る自分の番。「噛んだらどうしよう」と不安になったり、「自分の読む分が短いといいな」なんてことを願い待つ。そういう時に限って、自分だけ長い文であったり、難しくて読めない漢字があったりするものだ。ああ無常。

僕にとっての国語の認識なんてこんなものであった。ただ皆で文字を正しい発音で読み上げる。それ自体の真価に興味はない。あるのは評価だけといっても過言ではないのかもしれない。

その中でも印象的な作品は今思えばいくつかある。宮沢賢治の『やまなし』のクラムボンのどこか日常に潜んでそうな不思議な存在。芥川龍之介の『羅生門』の生臭い刺激的な表現。

それもどれも今思えばだ。あのときは、ちょっとした”異質”な感じで終わっていた。それを自分と重ねたこともなかったし、重ねるだけ考えて歩んできた人生ではなかった。

 

本をよく読む生徒がクラスにいたが、全く気持ちが分からなかった。休み時間なんだから友達とはしゃいだ方が楽しいだろうと考えていた。別に彼女を否定していたわけでなく、純粋に思っていた。

中学二年生からも僕の本に対する態度は全く変わらなかった。国語はあくまで成績、勉強の一環にすぎないものだと考えていた。それ以上は僕の考える範疇を超えていたので想像の余地もなかった。そこからクラスカーストみたいのを嫌でも認知されることになり、うまい立ち回りをするようになった。あくまで自分という個性を持ちつつ、その地位を確立しようと日々立ち位置に気を付けて生きていた。

まあここまでネガティブに中学時代を振り返ったが、僕は後悔はない。それに伴った、素晴らしい経験もできたし、コミュニケーションの重要性をそこで深く学べたのは知識以上に生きるうえで重要であると今も思う。

 

話は戻り、読書習慣は一向につかないまま高校をも終える。正直に言って、高校時代で読書をあまりしなかったのは深く後悔している。さっき言ったことと矛盾しているようだが、高校はそうしなかったことによる利点を得られなかったからといえよう。利点だけを考えるとはとんだ合理主義と思われるかもしれないが、少し事情がある。

 

高校時代を一言で言うと、”苦悩”といったとこであろう。今考える僕にとって、この言葉はかなりしっくりくる。数年後の僕も同様に納得してくれるであろう。

僕はずっと苦悩を抱えて過ごしていた。高校受験の失敗、陸上競技での成績不振、大学受験の失敗。漠然と過ぎる日々の中で苦悩にぶち当たる度にひたすら頭の中で考えた。

一体僕の存在価値ってなんだろう。なんでこんなことしてるんだろう。やめたい。

残念ながら大人になりすぎてしまった僕は誰からも褒められない。当然だ。大人になるということはそういうことに近いのかもしれない。誰かがその努力の過程をずっと見ていてくれて、結果にかかわらず褒めてくれるわけない。自分自身でその軸を定めて生きていかなくてはならないのだ。それがとても辛かった。それを表現する方法も考える脳も不足していた。

 

もっと昔から読書していたらなと最近良く思う。それは読書が与える重要性を体感している他ならない。よく読書は心の栄養と僕は思う。高校生の僕の心は荒んでいた。なんて自分は不運なんだろうと思っていた。なんでこんな思いをしているんだろう。選んだ道だろうが、人は後悔するし嫌にもなる。一般論はあくまで一般論だ。曲は無数にあれど、自分のための曲は存在しない。

もしも、小説でもラノベでももっと触れていたら。僕のとことんまでハマるという性質上、すぐに読書ばかりする人間となっていただろう。苦悩には変わらずとも、それを深く考えることができただろう。それに、勉強も少しはマシになっていただろう。

 

一般論は嫌うくせに、夢は追う。ふとそんな支離滅裂さに我ながら呆れてしまうが、そんなところがあるほうが人間味があっていいなとも思う。

 

その後僕が読書に目覚めるのは大学生になってからであるが、浪人時代にひたすらブログで文章をつづる(今はほぼ消してしまったが)習慣により考える力はそれ以前に養われた。自分は窮地に追いやられたときに一番力を発揮するのは何とも「やれやれ」である。

 

失った時間は反省はできるが、戻ってこない。

なのでピースを埋めるように大学生は過ごしていきたい。