迷子の建築学生ブログ

たとえ道に迷ってもそれでいい

自分を見つめ直す

こんにちは。

 

周りとの関係の中で、自分の立ち位置やあり方というのをたまに考えさせられます。

僕は些細な物事を深く考えたりするタイプで、考えてる次元が他の人と解離している場合がとても多いです。

だからよく周りから尊敬の目で見られることが多いです。

「すげぇ考えてるな」とか「よくそんなこと知ってるな」とか。

そして改めて考えさせられます。

「僕はそんな大した人間ではない」と。

 

少し昔まで遡ってみます。

 

小学生までは何も深いこと考えずに生きてきました。

深く考えることの価値に見いだせていなかったというか、当時はそんな自己分析を考える余地がないほど与えられた環境を真っ直ぐに進んでました。

考えるといえば、お絵描きの投稿サイトで好きなものを描いていかに良い評価が貰えるか。良い評価が無くてもまあいいか程度でしたが、やはり本気で描いたもの程評価は気になります。しかし、それもアマチュアの域を出ませんでした。

 

そして、中学生は周りに合わせるということを学んでいきます。空気を読むということ。共有すること。それが学校というヒエラルキーの中で生きていく術だと。

正直、中2はそんな現実に直面してキツかったです。空気を読まず発言して浮いてしまうと周りから白い目で見られます。実際、そんな子がいて周りから少し煙たがられていました。僕はその時から人を観察する能力に優れていきます。自分が生き残るためでしょうか、それが今活きるとはなんとも皮肉なものです笑

中3ではそんなヒエラルキーも落ち着きわりと好きにやっていけました。クラスのほとんどがよく話す友達だったし、順風満帆そのもの。中学生活をエンジョイしてました。

 

しかし、高校受験は失敗。そこから一気に変わります。

クラスは陰気なムードに包まれている人が多く、僕も活発性を失っていきました。友達は三年間でごく少数しか出来ませんでした。まあそれはそれで気の合う友達ができて良かったですが。

高校は色々あって僕にとっては最悪の環境でした。本当に辛かった。自分の無力さを思い知らされるようなことは幾度とあり、その度に心は病んでいきました。

高校の友達から余裕で馬鹿にされました。まあめちゃめちゃ仲いい友達なので冗談混じりですが、彼らはポテンシャルは高く頭の回転は早い人ばかり。その点僕は、一般教養は欠けているし、語彙力なく、頭の回転も悪い。喋るのも噛み噛みだし、直ぐに言葉が出て来ない。そうするとよくある定型ばっかり発することになります。要するにヤバいとかダルいとか。そうなるとまじで語彙力つきませんよね。それは今改善中ですが、まだまだです笑 

中学では自分より馬鹿な人が普通にいましたから、勝手に自分を頭いいほうの部類と考えてましたが、高校では僕が頭悪い人間のポジションでした。全く人生分かりませんね笑

高校は陸上にすべてに注いでいたのもあり、勉強は全くでした。塾に暫く通ってなかったため元々ほぼなかった勉強習慣も消え去り、授業中はただノート写しして寝るだけの日々。

そして大学受験失敗。この時にやっと気付きました。自分が頭悪いことに。

 

数年間も勉強を怠った僕がそのブランクを一年で取り戻すのは地獄でした。ひたすら勉強の手段を模索して頭悪い僕でも合格できる手段を実行するしかないと考えてました。

結果は晴れて合格。自分でも良くやったと思ってます。しかし、ここからが新たな悩みとの戦いでした。

 

いわゆる意識高めの大学生となった僕は、その意識の高さと成績の良さから頭いいやつだと大学では思われます。すなわち勉強できて、頭の回転早いやつだと。

しかし、事実は全くの逆。

一般教養が欠落してるため話では人知れず恥をかくことが多いし、周りは問題をいとも簡単に解いてそれを共有してくれます。

彼らのポテンシャルの高さに僕はそれまで尊敬されて膨大した自己評価に対して絶望しました。「全然こいつらの方が頭いいじゃん…」と。わりとコンプレックスとも言えるくらいには辛かったです。

そして本をめっちゃ読んだり、色々な活動をして知見を深めたりして何とかコンプレックスを克服しようとします。そうして建築という分野だけ突き抜けて知識が蓄えられてきます。すると皆はそこだけを見て、やはり僕を判断してしまいます。そうなったら僕がいかに大した人間ではないかを説いてもそれはただの謙遜な嫌みに変換されるのです。

そしてどんどん僕は持ち上げられていきます。

「どうせお前は次も優秀作に選ばれるべ」とか。

「流石希望の星だわ」とか。

嬉しい反面プレッシャーを感じざる終えない時期もありました。実際優秀作は選ばれましたが、自分では納得いかない結果に。そうして自分で一体何を目指して建築を勉強していたか分からなくなっていきました。

周りの評価のため?自分がやりたいから?コンプレックスの克服?

時々自分を見失います。僕は自分が思ってるよりちゃんと自我を確立していないようです。

 

そんな中で今の答えは「自分が好きなようにやる」ということ。そして周りの評価は一時的または一つの指標に過ぎず、とらわれすぎるべきではないと。

 

建築は好きでやってきてますし、絵を描いてるのもそうです。だからこそ追及したいと思うし、感情が揺さぶられる。

そして、周りの評価は大抵はその人が表層だけ捉えて意見したものに過ぎず、大した意味は無かったりするということ。まあ自分で一度咀嚼するというのは大事なので全てを拒否するという訳ではありません。自分の中で価値観が大きく変えられる程の影響を受けたら、それは何度も考えてそれをそのまま受け入れるべきか熟考してからにするべきではないかと思います。まあそれが難しいわけですが笑  しかし、情報がこれだけ入ってくる今、全てを受け入れてしまうとパンクしてしまいます。実際、パンクしたりしてます笑  そこの折り合いをもっと上手くつけれるようにすることが課題ですね。

 

この辺りをもっとクリアにできたら、自分の中でひとつ殻を破れるような気がしているのです。だからこの記事を書いてます。最近、その殻の中でずっともごもごしているような感覚です。殻を破ったと思ったら、実は多層構造で外にも殻があって。内側からでは何枚あるかも分からない。この感覚はかなりつらい。でもいつか破れるような気がするのです。理由はやることやってきてるから。まあいつか破れるといいなーぐらいに考えるようにはしてます。

 

 

こう見るとすげぇ苦難の日々みたいな人生送ってますね笑  それほどでもないということは最後に言っておきます笑